40miles of suzuki

第1章
(〜1960)

第2章
(1960〜)

第3章
(1970〜)

第4章
(1980〜)

第1章  昭和35年の創業とその背景

建築設計家の旅立ち


 当事務所は昭和35年1月1日、鈴木現会長によって設立されました。建設省を退官した後、3年間在籍していた織本建築事務所を前日の大晦日に円満退職し独立したのです。事務所は中央区築地の友人である松村氏のビルの事務所をそっくり借りたものです。

 時代は、まさに戦後復興から高度成長に向かうころで、構造設計家をはじめプロの設計家が一 人でも多く求められていました。鈴木はこの時代の確かな風を感じ取っていたのです。

建築設計家としての歩み


 敗戦後の昭和21年、鈴木は日本大学高等工学校に入学(3年間)、学制改革とともに日本大学工学部建築学科に進学します(3年間)。大学では建築一般の理論を学ぶとともに、とくに影響を受けたのは耐震構造や構造設計理論でした。

 昭和27年に大学を卒業した鈴木は、建設省に入省します。入省後、営繕部で各種官庁建物の設計施工監理に携わりましたが、 無理がたたって結核で1年余ほど療養生活を送ることになりました。復帰後、やはり多くの官庁建物や公共建物を手がけ、代々木の国立競技場の仕事を最後に32年1月に退官しました。
 建設省では上司から構造設計を徹底的に鍛えられました。役人時代の5年間は、構造設計や意匠設計だけでなく、同時に多くの現場の施工監理を担当させられました。これらの経験が独立以降の鈴木に大いに役立ったことは言うまでもありません。
 鈴木が建設省を退官することになった理由は、私立大学出身で、しかも1年余病欠した人間には建設省の技官としての出世が見込めなかったことにありました。そんな時に大学時代の友人から織本建築事務所に来ないかとの誘いがあったのです。

 織本建築事務所は当時、構造事務所の先駆けとして知られた存在で、主宰者の織本道三郎先生は、大スパンやトラスの研究者としても有名な実力者でした。鈴木は大学同期の友人がすでに在籍していたこともあり、当初から3年間だけ実務を学び独立することに決めました。織本事務所では、構造設計を学ぶとともに、営業を積極的に担当し、受注の実際を勉強しました。ここでの3年間は独立直前の実戦準備期間として貴重な時間を鈴木に与えてくれました。

 構造設計家として生きるという少年時代からの夢は、こうして次第に確信へ変わりつつありました。

ローヤル宮前平ハイツ / 1993

60年安保から高度成長の時代へ


 鈴木が独立を決意した昭和35年といえば、あの有名な60年安保闘争のあった年です。この年には、三井三池闘争もあり、安全保障政策やエネルギー政策の転換をめぐって国論が大きく二分したことで知られています。
 安保条約成立後、岸内閣に替わり登場した池田内閣は、所得倍増政策を掲げ、高度成長政策を積極的に推進しました。池田首相の積極政策の背景には、実質経済成長率で34年9.4%、35年14.1%、36年15.6%という現在では考えられないほどの驚異的な経済成長があったのです。
 一方、インスタントコーヒーの発売により“インスタント時代の到来”が騒がれ、NHKと民間放送がカラーテレビの本放送を開始したのもこの年です。すでに戦後復興の時代は遠く去り、いままさに高度成長と東京オリンピックにいたるインフラ整備の時代が幕開けしようとしていました。

コスモ押上 / 1997

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第4章
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第2章  構造設計を中心に基礎づくり

当面は構造設計に徹する


 鈴木は、鈴木建築事務所を設立するにあたって、当面構造設計を中心に受注するとの基本方針を立てました。

 建築設計事務所には、大きく分けて、
   1.計画事務所
   2.構造事務所
   3.設備事務所
の3種類がありますが、この2番目の道を進むことを決めたことになります。

 1.は、意匠 設計事務所ともいわれ、建物や都市計画の全体の基本計画・基本デザインを設計する事務所で、通常設計事務所の元請け的な役割をするのです。

 2.の構造事務所は全体計画のうち、構造設計や耐震設計部分を主として担当します。

 3.の設備事務所は、電気・ガス・給排水設備などの建築設備関係一式を担当します。

 鈴木が3年間在籍した織本建築事務所は、構造事務所の草分けであり最大手の一つでした。織本所長の名声により意匠設計を含めて元請受注することもありましたが、ほとんどの仕事が構造設計でした。だれでも目指したがる意匠事務所は一見派手だがリスクが多すぎました。そこで当面、下請けの構造設計に徹して安定路線を進み、建築事務所としての実績をつけることにしました。元請けの意匠設計にも乗り出すのはそれからでも遅くはないと考えたのです。

 それでも初年度の昭和35年は、織本事務所時代の実績から発注元の荒川区から中学校・小学校などを受注することができました。翌36年には荒川区からの直接受注で荒川第4中学、同第13中学を受注するとともに、日建設計や竹中工務店の下請けで長大スパンの工場の構造設計を受注するようになりました。この時、荒川区の学校関係を中心とした工事は、耐震設計の面で高い信頼を得て、白髭再開発事業など現在に至るまで厚い信頼関係で結ばれています。

ホテルタガワ / 1991

田川山荘で意匠設計へ


 創立当初の社員は鈴木を含めて、吉沢、菅谷、中村、荒谷の5人でしたが、37年に入ると設計部長として原を採用、初めて意匠設計の受注を正式に開始しました。その一つは、鈴木の友人で郷里の北志賀竜王高原のリゾート開発に乗り出した田川氏が最初に経営する山荘の建築設計を受注し、以後今日まで、同氏の事業展開に伴いホテルなど数多くの設計を受注することになります。

 昭和39年は新潟地震が発生、耐震建築が注目されたが、一方では東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通した年です。
 この年、東京都と日本揮発油の設計を受注したのが大きな出来事です。東京都では都立久留米高校の設計が最初だが、以降、現在に至るまで多くの仕事を受注しています。日本揮発油の受注は、各地の石油精製関連施設の架台の設計で、構造設計技術の真価が問われる設計でした。また、前年の38年には相馬が、39年には加藤、水村が入社、社員も少しずつ増えていきました。
 40年ごろからボウリングブームが起こってきましたが、当事務所は八王子ボウルを手始めに多くのボウリング場の設計を受注しました。ボウリング場こそ柱の少ない長大スパンの構造設計技術が要求される設計であり、構造事務所にふさわしい仕事でした。
 その後、43年に練馬区、44年には建設省の受注にも成功、官庁関係の得意先も充実してきます。

 昭和35年、細々とスタートした事業は順調に伸び続け、44年には社員も15人を数えるまでに増加した。ほぼこのころまでが当事務所の創業期にあたるのです。


葛西臨海公園休憩所 / 1990

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第3章  意匠と構造を両輪に成長発展

意匠と構造の追求を戦略に掲げる


 昭和45年7月、私学会館での創立10周年記念式典を開催しました。これまでの好業績に支えられ、当事務所は前途洋々、順風に乗って大きく飛翔しようとしていたからです。

 建築設計事務所が拡大成長路線を進める場合、大きな意匠設計を受注しようとします。しかし、大きな意匠設計を受注しても、一時的に売り上げは大きく伸びるが、その後はどうしても落ち込まざるを得ないのです。それがかなり大手でも意匠設計事務所の宿命ともいえたのです。

 鈴木が主として構造設計に専念したのは、経営を安定させるためでした。しかし、建築設計家である以上、意匠設計もやりたい。また、優秀な社員を採用し続けるためには、やはり意匠設計も志向せざるを得ない。そこで今後は、意匠設計と構造設計を同時に行っていくことにしました。構造設計の技術と信頼性をバックに、建築計画全体を積極的に提案していくことにしたのです。

 これ以後、当事務所はこれを戦略として明確に位置づけた。具体的には、社員を意匠班と構造班に分け、月間15件の構造設計を受注してコンスタントに仕事をこなしながら、月間1〜2件の意匠設計を受注するという方針を立てました。

いざなぎ景気に支えられ公共建物を中心に業績拡大


 当事務所が10周年を迎えた昭和45年は、日本経済は好況を続け国際収支の黒字基調と強い円をバックに確実に経済大国への道を歩み始め、前年の43年にはGNP(国民総生産)が西独を抜いて資本主義圏第2位となりました。
 翌44年には長期のいざなぎ景気が始まり、東名高速道路が全線開通、翌45年には大阪万国博覧会が開催され、全国的にインフラ整備が一層進められました。この年以降、46年のドルショックの一時的停滞を別にすれば48年後半の第一次オイルショックまで、日本経済は好調を長期に持続したのです。

 昭和44年の建設省の受注についてはすでに述べました。それ以降も45年の東京都下水道局の排水機場文京区、47年の都立雪谷高校、荒川児童館、48年の都立城東高校など、各種公共建物を次々と手がけるとともに、マンションや山荘などの民間建物を数多く受注するようなりました。

オイルショックによる業績停滞


 昭和48年10月の中東戦争を契機に始まった原油価格の騰貴は、さまざまな分野に重大な打撃を与え、物不足と物価騰貴をもたらしました。
 この第一次オイルショックの影響は翌49年には顕在化し、日本経済は戦後初のマイナス成長を記録し、深刻な不況に陥ります。しかもその影響は長引き、53年まで実質GNPがオイルショック以前の水準に戻らないほどでました。当事務所も減量経済の影響をまともに受け、49年には受注が30%以上減少しています。しかも50年には千代田区の不良鉄骨事件の影響もあり、業績はしばらく低迷せざるを得なかったのです。

 53年にNHKの社宅の受注に初めて成功、以降NHK関係の仕事が徐々に増え、業績も少しずつ向上したものの、当事務所にとって長い低迷期が続きました。

警察庁上野寮 / 1995

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第4章  金融緩和の波に乗り拡大成長

官庁重視を強め、バブル崩壊の影響を緩和


 昭和54年の第二次オイルショック以降、日本経済は立ち直るが、強い円に対する外圧が強まり、為替関係を調整するために、昭和60年プラザ合意が成立、一気に円高となりました。しかし、内需型移行と低金利政策に支えられ、63年になると日本経済は絶好調を迎えますが、次第にバブルの様相を濃くなります。
 こうした経済の活況を反映し、当事務所もようやく低迷期を脱し、平成元年から5年にかけて業績は急成長を遂げました。とくに平成元年ごろから事業提案型による受注が増えました。元年のほんもく神田ビル、2年の猪苗代超高層ビル(60階)、松田商事ビル、アサヒビル、イエローハットなどが、その主なものである。
 3年には前述のホテルタガワの新築工事も受注しています。バブル期の受注の特徴は、商業ビル、マンション、ホテルなど民間受注が大幅に増えているところにあります。

 話はさかのぼるが、昭和62年7月、鈴木の長男、賢一が入社しました。賢一は大学卒業後、大和ハウス工業株式会社入社し、当時他では事例のない土地有効利用と店舗展開を行う新規事業部に配属され、先輩社員と紆余曲折しながら今でいうビジネスモデルを作り営業活動を行いました。
 この時の上司、松尾茂和氏(現・ロック開発株式会社代表取締役)と河口英俊氏(現・大和ハウス工業株式会社監査役)に社会人としての教育を受け、その後の生き方にも大きく影響を受けました。

 バブル崩壊は平成3年に始まりますが、その崩壊を読み、営業活動を官庁主体に切り換えていったのは賢一でありました。この時の官庁関係の受注がなければ、バブル崩壊後の落ち込みは、避けられなかったでしょう。

代々木公園休憩所 / 1989

社長交替と新時代の到来


 バブル崩壊後の業績悪化が明らかになってきた平成6年3月、営業を中心に活動し、改革の意欲の燃える鈴木賢一が第2代社長に就任し、前社長の鈴木清次は会長に就任した。この時、新たに畑野(現・取締役統括部長)が加わり、営業を強化しました。しかし、業績は平成6年、7年と下降線をたどった。いくら官公庁受注に傾注しても、この不況下ではある意味では仕方がないことでした。

 ところが、平成7年1月、あの痛ましい阪神淡路大震災が発生。これにより、学校などの公共建物の耐震診断や劣化調査の仕事が急増し、平成8年には業績も倍増しました。翌9年も繁忙に追われた。阪神淡路大震災によって耐震診断の需要が急増したのは、東京都の震災予防条例のにもとづく公共建築物の耐震診断の実施があり、鈴木が構造設計家として、昭和44年からその基準づくり作業やその後の耐震診断などにほとんど手弁当に近い形で協力してきた背景があるのです。また、現実に耐震診断を正確にできる事務所は当時において東京全体でも4社ほどしかなかったのです。長年の奉仕に近い構造設計家としての協力が思わぬ形で報われたことになります。この後、鈴木は平成7年建設大臣賞を授与されました。

荒川区立第三中学校 / 2001

新たな組織経営へ


 鈴木賢一が社長に就任してまず取り組んだのは、営業の強化と同時に、組織の確立だった。

 創業経営者である鈴木清次が社長である間は、鈴木が営業から設計、経理、人事に至るまで全てを取り仕切っており、文字通りワンマン経営でした。そのため、社員への責任分担が不十分で組織の発達が不十分になりがちでした。
 そこで、社内に総務、営業、意匠、構造の4 つの部門を設け、役割分担と責任を明確にさせました。そのうえで定期的な全体会議の開催、年間目標の明確化、受注台帳の整備など、会社組織の初歩からスタートさせました。それでも技術屋意識の強い社員たちには、当初かなりの抵抗もありました。

 鈴木社長は官公庁重視路線をさらに強化するとともに、大和ハウス工業時代の経験を生かし、土地の有効活用による手法を生かした提案を平成4年から東京都におこなっていました。
 その結果、白髭地区再開発事業のうち4件の受注に初めて成功しました。この時の受注には荒川第3中学の改築工事も含まれています。この中学の新築時の設計は、草創期の当事務所が行っています。再開発事業受注成功は、創業以来、長年にわたって築いてきた荒川区の実績も生きていたのです。そのほか、ユニークな物件としては伊豆七島の一つ御蔵島の村営ホテルがあります。いま噴火と地震で揺れている三宅島の南にある小さな離島の狭い敷地立つホテルですが、土地柄耐震設計が要求されることはいうまでもありません。現在、平成13年の完成を目指して工事中です。

東京消防庁平井第二寮 / 1993

21世紀のプロデューサー型事務所づくり


 当事務所の40年の歴史は、意匠設計と構造設計の2つを巧みにミックスすることによって経営を安定させながら、学校建物などの公共建物を中心に耐震設計をひたすら追求してきたものです。それは、多くの社員や得意先、協力会社に支えられながらも、ほとんど構造設計家・鈴木清次個人の歩みであり、この流れは、いま長男の鈴木社長によって確実に引き継がれようとしています。鈴木社長は、21世紀の当事務所の経営について、次の2つの目標を掲げています。

  ・社会に役立つ会社・社会の変革にかかわる会社

  ・耐震診断・劣化調査の実績と信用を拡大し建築物の延命策の事業を行う

 「役立つ・変革にかかわる会社」とは、社員一人一人が発注先の依頼のまま設計するだけでなく、顧客に豊かな住環境を積極的に提案し、アフター・メンテナンスもきっちりできる、新たなプロデューサー型の会社のことです。その実現のために、社内に構築したイントラネットを有効活用し情報共有化を進めて、質の高いサービスを提供することを目指します。同時に、これまで40年にわたる構造設計・耐震設計の伝統と実績を大切にすることも掲げています。この2つを融合させ当事務所は、21世紀の社会に向かって、積極的に行動します。

第1章
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第2章
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Suzuki Architecture & Engineering. / since1960